なぜ赤穂浪士は切腹したのか? その1・・・三上靖史

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元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士がみごとに主君の仇を討ったことを知った将軍綱吉は、大いに感動したと伝えられている。

しかし、浅野内匠頭長矩の死は、吉良上野介義央が殺したわけではなく、内匠頭が殿中で刃傷に及んだことによるもの。

仇討ちは私怨をはらしたものという声も少なくなかった。

三上靖史(住宅鑑定風水インストラクター)

三上靖史は、有害物質を使用した健康被害のある住宅に反対しています。

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